最終的に生き残

orae

2016年03月23日 15:21



『回虫は、しばしば脳や眼球に迷入する。人体内に、ニクバエの幼虫や、シマミミズが寄生していた例さえあり、当該の線虫についても、たまたま脳内で見つかったからといって、ただちに危険なものと断定することはできない』
 早苗は、渡邊教授から見せてもらった厚生省からの文書の一節を思い出した。有力者の判断が、そのまま反映されたものらしい。現在の日本のシステムで、一医師がこれに楯突《たてつ》くのは容易なことではない。かりに早苗が失職覚悟で異議を申し立てたとしても、役所の方針が覆るとは思えなかった。しかも、この方針が百パーセント間違っていたとも言い切れないのだ。文書の最後には、たしか、こうあったはずだ。
『死亡との直接の因果関係は確認できず、プライバシーの問題もある。海外で偶然に罹患《りかん》した風土病と思われ、いまのところ流行の可能性は認められない以上、いたずらに不安を煽《あお》るのは望ましくない』
 いかにも役所らしい言いぐさではある。だが、一面の真実を衝《つ》いていることは否定できない。そして、その点が、早苗が福家に電話するのをためらう最大の理由なのである。
 もし福家に知らせれば、遅かれ早かれ、必ず記事になるだろう。そして、いったん公表された情報は、環境中に放出されたウイルスと同じで、後から抹消するのは不可能に近い。
 しかも、情報は、繰り返し誇張され、潤色され、歪曲《わいきよく》されながら報道されるうちに、どんどん形を変えていく。その速度はエイズウイルス以上である。そして、るのは、ウイルスとまったく同様に、生き残りやすい形質を備えたものである。つまり、より人々の意識に刻み込まれやすい、センセーショナルで、恐怖という根元的な感情に直結しやすい『物語』である。
 エイズのときもそうだったが、脳に巣くう寄生虫というイメージには、より生々しく人の生理的な嫌悪感に訴えるものがある。デフォルメされた情報が広まる過程で、無意味なパニックやバッシング、いじめ、差別問題などが引き起こされる可能性は高かった。今の時点で、そこまでの犠牲を払ってまで警戒を呼びかけるべきなのかどうかは、とても判断できない。
 さらに、公表を恐れる赤松助教授の遺族の意向も、故なしとは言えなかった。
 赤松助教授の出身地方の村落には、古代から連綿と続く、ある『憑《つ》き物』に関する迷信が存在しているのだという。
 早苗は、さっき黒木晶子に電話をかけて、『憑き物』に関するレクチャーを受けたばかりだった。それによると、村の中で特に羽振りがよかったり、隣の田と比べて稲がよく実ったりする場合に、
「あの家は『憑き筋だ』」などと噂されるのだという。狐などの妖怪変化《ようかいへんげ》が『憑く』ことによって、周囲の家から密《ひそ》かに財宝を奪い取り、その家の繁栄を助けているという『物語』である。日本人特有の陰湿な嫉妬《しつと》の感情によるものだろうが、噂された方では、縁談に支障が出るなどの実害を被り、極端な場合は、村八分のような目に遭うことさえあるらしい。
『憑き物』に関する迷信は、関東から中部地方、中国、四国にまで広く分布している。狐を自在に操るという『飯綱《いづな》使い』などは、十三世紀の天福年間に、狐にまたがった荼枳尼天《だきにてん》への信仰から始まったとされているが、その真のルーツは遥《はる》かに古く、ほとんど有史以前の信仰にまで遡《さかのぼ》るらしい。
 これもまた、病原性ウイルスと同じように有害な情報の一種である。早苗は、そうした馬鹿げた迷信はとうに絶滅したのかと思っていたが、地域によっては、今日でも根強く生き残っているらしかった。むしろ、オカルト ブームや、非合理的なものを無責任に肯定してしまうテレビ番組などの影響によって、復活する傾向にすらあるのだという。