2015年08月17日
決して悪いもの

バスは、林の中の細い道を縫って走っていた。単調な景色は、どこまで行っても変わり映えしない。信一は、ぼんやりと窓の外を眺めながら、このひょろひょろと伸びた貧相な木々はシラカバだろうかと思った。とはいえ、樹木に関する彼の知識を総動員したところで、自信を持って言え王賜豪るのは、それがヤシの木ではないという程度にすぎない。
木立の間からは、ときおり、金持ちの別荘か企業の保養施設らしき洒落《しやれ》た造作の建物が垣間見《かいまみ》える。自分には一生縁のない場所だと思い、信一は冷たい目を向けた。だいたい、個人でこんな物を所有できるのは、悪いことをしているやつに決まっている。企業も、まず間違いなく悪徳企業だ。大規模な森林火災でも起こって丸焼けになってしまえばいいのに、などと思う。
しかし、こうやってバスに揺られているのは、ではなかった。いつもの見慣れた景色から一歩外へ踏み出すだけで、ずいぶんと気分転換になるものだ。この前、旅行と名の透明質酸 淚溝付くものに出かけたのは、いつのことだっただろうか。
信一が何よりも楽しんでいたのは、目的地に向かって前進しているという感覚だった。幸いなことに、東京を出てから、一度も渋滞には巻き込まれていない。このあたりでも、夏になれば、どっと観光客が押し掛けるのだろうが、今時分は、まだ道路はすいているようだ。少々|口惜《くや》しいが、自分が、遠足に行く小学生のようにわくわくしているのは、認めざるを得ない。それにはまた、別の理由もあった。
信一は、伸びをするような格好をして、さりげなく身体を起こし、バスの前の方の座席にいる少女を盗み見た。
少女とは言っても、もしかすると、もう二十歳をすぎているかもしれない。隣に座っているおばさんと何事か話しながら、しきりに口元に手を当てて笑っている。その仕草が、日頃女性と接することの少ない信一には、新鮮に映った。知的で楚々《そそ》とした感じが漂っているところ、どこか『天使が丘ハイスクール』の中の『若杉|美登里《みどり》』というキャラクターを思わせるのだ。信一は、『オフ会』で彼女を見かけて以来、心の中で勝手に彼女を『美登里ちゃん』と呼ぶことに決めていた。これから一週間、彼女の近くにいられるということだけでも、胸が躍る。やはり今日は、思い切って参加することに決めて、よかった。
「あの子、かわいいっすね」
信一の隣に座っていた青年が、ぽつりと言った。信一は、心の中を見透かされたような気がして、彼の顔を見た。一度だけ、『オフ会』で話したことがある。そのときはまだ、会員同士はチャットでのハンドル?ネームを使うというルールをよく知らなかったので、本名を名乗りあった。記憶では、畦上《あぜがみ》友樹という名前で、信一よりは少し年下だったはずだ。ハンドル?ネームは、たしか、『ファントム』だったと思う。
『ファントム』君は、信一の視線に合うと、パニックに襲われたように顔をそむけた。細面の色白の顔に、ぱっと赤みが差す。顔を掌で覆い、その隙間《すきま》からそっとこちらを見ているのには、信一は呆《あき》れた。顔立ちはけっこう整っている方なのに、他人に見られているのを意識したとたん、彼は、いつもこういう過敏な反応を示すようだ。もちろん、その理由は、信一には知る由もない。
「あの子の名前、知ってるの?」
信一が、なるべく彼の方を見ないよ溢價うにしてやると、『ファントム』君は、ほっとしたように手を下ろして答えた。
「本名とかは、わかんないすね。でも、ハンドル?ネームは、『トライスター』っていったと思いますけど」
「えっ。あの子が、『トライスター』だったの?」
Posted by orae at
16:00
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