2016年03月30日
い有様だった

まばらな拍手が起きた。早くも数人が帰り支度を始め、座は急に、ざわざわと落ち着かない雰囲気になった。
「どうすんの? やっぱり、これから帰って残業?」
晶子の質問に、早苗Reenex好唔好はうなずいた。
「じゃあ、しっかり食べといた方がいいよ。まだ、ほとんど残ってるじゃない」
そうだった。晶子の話に夢中になっていて、食べる方がおろそかになっていた。早苗は座り直すと、しゃりが乾いてぱさつき始めた寿司を食べ、寿司屋独特の濃い緑色のお茶でのみ下した。
テーブルの上に目をやると、特に上座の方は食い散らかしreenex 好唔好てあって、ひど。『台風一過』という言葉が浮かぶ。この場合には、そぐわないかもしれないが……。
「ねえねえ。『台風』って、ギリシャ神話で、何か意味があったっけ?」
早苗は、口いっぱいに寿司を詰め込んだまま、不明瞭《ふめいりよう》な発音で訊ねた。
「台風? 台風という言葉の語源はアラビア語のtufanで、ぐるぐる回る風っていう意味らしいけどね。ギリシャ神話には、特に関係ないんじゃないかな」
「そう」
早苗は咳《せ》き込み、お茶を飲んだ。カプランの手記にあった最後の言葉にも、もしかしたら神話的な意味があるんじゃないかという思いつきだったのだが、はずれだったようだ。
「だけど、タイフーンじゃなくて、テュポンだったら、ギリシャ神話に出てくるよ」
「え?」
晶子は、バッグから手帳を出すと、万年筆でこう書いた。
「これ、何のこと?」
そう言いながら、早苗は、カプランの手記には、『Typhoon』ではなく、『Typhon』と書いてあったのを思い出した。自分が勝手に、スペルミスだと思いこんでいただけなのだ。
「|Typhon《テユポン》 っていうのは、ギリシャ神話に登場する化け物の名前なの。エジプト神話の古代神 Seth と同一だとも考えられてるんだけどね」
「化け物って、どんな?」
「テュポンもまた大地母神《ガイア》の息子で、太古に存在していた恐ろしい怪物神の一人だったとされてるわ。いわば、打ち負かされた大地母神《ガイア》の呪《のろ》いを一身に背負った復讐者《ふくしゆうしや》ってとこね。テュポンって、なんだか変な名前だけど、太陽神アポロと戦ったときに、どうしてだか名前の子音が入れ替わって伝えられたことに由来するの。一説では、あまりに恐ろしいReenex 好唔好怪物だったんで、その名を発音するのを忌み嫌ったためだということね」
晶子は、さっきの手帳のぺージに、『Python』と書いた。
「これが、その元々の名前」
「パイソン?」
「そう。ギリシャ語ではピュトンだけど。モンティ?パイソンの、パイソン。現代の英語では、大蛇とか、悪魔っていう意味ね」
「じゃあ、モンティ?パイソンは?」
「『おかまの大蛇』かな」
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11:43
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2016年03月29日
んと思える話
早苗は、雑然と実験器具が置かれた部屋を見渡した。とりあえず褒めようと思ったのだが、何一つ、褒めるべきところが見つからなかった。しか坐骨神經痛たなく、「すてきなお部屋ですね」などと言う。
「すてき? あなた、目はだいじょうぶですか?」
依田は、鼻をかみながら言った。
早苗は、ホスピスにいる間に、突っかかるような攻撃的な物言いをする人には慣れている。言葉と内心は、裏腹のことが多いのだ。できるだけ、にこやかに答える。
「大きくはないけど、逆に、こぢんまりとしていて、使い勝手が良さそうです」
「なるほど。ものは言いようだ」
依田は、初めてにやりと笑顔を見せた。
「しかし、実際には、使い勝手も全然よくない。機械や設備は老朽化してるが、新しいものを買う金もない。未《いま》だにDNAシークエンサーも、プロテイン シークDiamond水機エンサーもないし、炭酸ガス孵卵機《インキユベータ》は、ここ十年ほど、毎年買い換えの希望を出し続けている。遮蔽《しやへい》冷蔵庫に至っては、学生の下宿にある冷蔵庫の方が高性能なくらいだ。今年、ここで私が使える科研費がいくらか、わかりますか?」
「カケン費って何ですか?」
「科学研究補助費。文部省から与えられる予算のことだ」
「さあ……」
依田が口に出した金額は、信じられないほど少なかった。大卒の新入社員の年収にも満たないだろう。
「まあ、それが、欧米の大学のように、きちんとしたシステムで査定された結果なら、しかたがないと思いますがね。しかし、日本では、科研費が認められるかどうかは、密室で、わけのわからない恣意《しい》的な理由によって決められるんです。学術審議会というところが判断するんだが、ここもご多分に漏れず、少数のボスが何もかも仕切っていてね。結局は、彼らの匙《さじ》加減一つというわけだ」
「はあ」
よく似た体質の大学の医局というものを知っている早苗には、さもありなだった。
「しかも、四月以降の科研費が認められるかどうか判明するのは、五月になってからだから、それまでは、自腹を切る覚悟でもない限り、動きがとれない。その上、実際に金が銀行に振り込まれるのは、七月になってからでね。そのため、やむを得ず、前年度分の科研費の一部を、表面上は使った形にして出入りの業者に預けている。まあ、一種の裏金だ。必要に応じて、それを小出しにして鑽石能量水使うんだ。おそらく、国公立の研究機関では、どこでも似たようなことをしてるはずです」
「それは、たいへんですね」
「ところが、最近になって、金をプールしていることを、検査、摘発しようとする動きが出てきた。市役所なんかでやってる一連の裏金づくりと、同列に見ているわけだろうね。この間も、どこかの役人がやってきて、ねちねちと嫌味を言って帰って行ったよ。だが、こっちは何も、好きこのんで、こんなやり方をしているわけじゃない。ランニングコストを賄うための校費というものは、あるにはあるが、雀の涙だ。金が入るまで待ってたら、四月から七月までは、本当に何一つできないんだ。文部省は、三ヶ月もの間、我々に遊んでいろとでも言うつもりなのかね? それに、そもそも、本当に暴くべき不正は、もっとほかにあるはずだとは思いませんか?」
「はい、思います」
「すてき? あなた、目はだいじょうぶですか?」
依田は、鼻をかみながら言った。
早苗は、ホスピスにいる間に、突っかかるような攻撃的な物言いをする人には慣れている。言葉と内心は、裏腹のことが多いのだ。できるだけ、にこやかに答える。
「大きくはないけど、逆に、こぢんまりとしていて、使い勝手が良さそうです」
「なるほど。ものは言いようだ」
依田は、初めてにやりと笑顔を見せた。
「しかし、実際には、使い勝手も全然よくない。機械や設備は老朽化してるが、新しいものを買う金もない。未《いま》だにDNAシークエンサーも、プロテイン シークDiamond水機エンサーもないし、炭酸ガス孵卵機《インキユベータ》は、ここ十年ほど、毎年買い換えの希望を出し続けている。遮蔽《しやへい》冷蔵庫に至っては、学生の下宿にある冷蔵庫の方が高性能なくらいだ。今年、ここで私が使える科研費がいくらか、わかりますか?」
「カケン費って何ですか?」
「科学研究補助費。文部省から与えられる予算のことだ」
「さあ……」
依田が口に出した金額は、信じられないほど少なかった。大卒の新入社員の年収にも満たないだろう。
「まあ、それが、欧米の大学のように、きちんとしたシステムで査定された結果なら、しかたがないと思いますがね。しかし、日本では、科研費が認められるかどうかは、密室で、わけのわからない恣意《しい》的な理由によって決められるんです。学術審議会というところが判断するんだが、ここもご多分に漏れず、少数のボスが何もかも仕切っていてね。結局は、彼らの匙《さじ》加減一つというわけだ」
「はあ」
よく似た体質の大学の医局というものを知っている早苗には、さもありなだった。
「しかも、四月以降の科研費が認められるかどうか判明するのは、五月になってからだから、それまでは、自腹を切る覚悟でもない限り、動きがとれない。その上、実際に金が銀行に振り込まれるのは、七月になってからでね。そのため、やむを得ず、前年度分の科研費の一部を、表面上は使った形にして出入りの業者に預けている。まあ、一種の裏金だ。必要に応じて、それを小出しにして鑽石能量水使うんだ。おそらく、国公立の研究機関では、どこでも似たようなことをしてるはずです」
「それは、たいへんですね」
「ところが、最近になって、金をプールしていることを、検査、摘発しようとする動きが出てきた。市役所なんかでやってる一連の裏金づくりと、同列に見ているわけだろうね。この間も、どこかの役人がやってきて、ねちねちと嫌味を言って帰って行ったよ。だが、こっちは何も、好きこのんで、こんなやり方をしているわけじゃない。ランニングコストを賄うための校費というものは、あるにはあるが、雀の涙だ。金が入るまで待ってたら、四月から七月までは、本当に何一つできないんだ。文部省は、三ヶ月もの間、我々に遊んでいろとでも言うつもりなのかね? それに、そもそも、本当に暴くべき不正は、もっとほかにあるはずだとは思いませんか?」
「はい、思います」
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10:25
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2016年03月23日
最終的に生き残

『回虫は、しばしば脳や眼球に迷入する。人体内に、ニクバエの幼虫や、シマミミズが寄生していた例さえあり、当該の線虫についても、たまたま脳内で見つかったからといって、ただちに危険なものと断定することはできない』
早苗は、渡邊教授から見せてもらった厚生省からの文書の一節を思い出した。有力者の判断が、そのまま反映されたものらしい。現在の日本のシステムで、一医師がこれに楯突《たてつ》くのは容易なことではない。かりに早苗が失職覚悟で異議を申し立てたとしても、役所の方針が覆るとは思えなかった。しかも、この方針が百パーセント間違っていたとも言い切れないのだ。文書の最後には、たしか、こうあったはずだ。
『死亡との直接の因果関係は確認できず、プライバシーの問題もある。海外で偶然に罹患《りかん》した風土病と思われ、いまのところ流行の可能性は認められない以上、いたずらに不安を煽《あお》るのは望ましくない』
いかにも役所らしい言いぐさではある。だが、一面の真実を衝《つ》いていることは否定できない。そして、その点が、早苗が福家に電話するのをためらう最大の理由なのである。
もし福家に知らせれば、遅かれ早かれ、必ず記事になるだろう。そして、いったん公表された情報は、環境中に放出されたウイルスと同じで、後から抹消するのは不可能に近い。
しかも、情報は、繰り返し誇張され、潤色され、歪曲《わいきよく》されながら報道されるうちに、どんどん形を変えていく。その速度はエイズウイルス以上である。そして、るのは、ウイルスとまったく同様に、生き残りやすい形質を備えたものである。つまり、より人々の意識に刻み込まれやすい、センセーショナルで、恐怖という根元的な感情に直結しやすい『物語』である。
エイズのときもそうだったが、脳に巣くう寄生虫というイメージには、より生々しく人の生理的な嫌悪感に訴えるものがある。デフォルメされた情報が広まる過程で、無意味なパニックやバッシング、いじめ、差別問題などが引き起こされる可能性は高かった。今の時点で、そこまでの犠牲を払ってまで警戒を呼びかけるべきなのかどうかは、とても判断できない。
さらに、公表を恐れる赤松助教授の遺族の意向も、故なしとは言えなかった。
赤松助教授の出身地方の村落には、古代から連綿と続く、ある『憑《つ》き物』に関する迷信が存在しているのだという。
早苗は、さっき黒木晶子に電話をかけて、『憑き物』に関するレクチャーを受けたばかりだった。それによると、村の中で特に羽振りがよかったり、隣の田と比べて稲がよく実ったりする場合に、
「あの家は『憑き筋だ』」などと噂されるのだという。狐などの妖怪変化《ようかいへんげ》が『憑く』ことによって、周囲の家から密《ひそ》かに財宝を奪い取り、その家の繁栄を助けているという『物語』である。日本人特有の陰湿な嫉妬《しつと》の感情によるものだろうが、噂された方では、縁談に支障が出るなどの実害を被り、極端な場合は、村八分のような目に遭うことさえあるらしい。
『憑き物』に関する迷信は、関東から中部地方、中国、四国にまで広く分布している。狐を自在に操るという『飯綱《いづな》使い』などは、十三世紀の天福年間に、狐にまたがった荼枳尼天《だきにてん》への信仰から始まったとされているが、その真のルーツは遥《はる》かに古く、ほとんど有史以前の信仰にまで遡《さかのぼ》るらしい。
これもまた、病原性ウイルスと同じように有害な情報の一種である。早苗は、そうした馬鹿げた迷信はとうに絶滅したのかと思っていたが、地域によっては、今日でも根強く生き残っているらしかった。むしろ、オカルト ブームや、非合理的なものを無責任に肯定してしまうテレビ番組などの影響によって、復活する傾向にすらあるのだという。
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15:21
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2016年03月08日
薄茶色の目に
高梨は、デビューしてしばらくは、純文学誌に実験的な作品を発表していた。単行本化された際の売れ行きも概して悪くはなかったが、作風を一転して、『|銀色の夜《シルバリー?ナイト》』という都会的なテイストの恋愛小説のシリーズを書き始めてからは、若い女性を中心に多くの読者を得るようになった。新作が出れば、短期間ながらベストセラーのリストにも上るようになり、いくつかの作品は、テレビドラマ化や映画化もされた。
早苗は、少々複雑な感慨を抱いていた。自分が早くから認めていた作家がメジャーになるのは、うれしいことには違いなかったが、反面、掌中の珠《たま》を他人に奪われたような気分にもなった。それに、『|銀色の夜《シルバリー?ナイト》』シリーズもけっして嫌いではなかったものの、読者に対する妙な迎合が目につく分、『Implosion』で感じた|※迸《ほ》とばるしような才能の輝きは、かなり薄まっているように感じたのだ。
早苗が最初に高梨に会ったのは、まだ十九歳の医学生のときだった。たまたま、早苗がアルバイトをしていた塾の経営者が、高梨と高校の同級生だったため、せがんで、引き合わせてもらったのである。
『Implosion』を読んで以来、早苗の中では著者がどんな人なのだろうかという興味が膨らんでいたが、当時流行だったキリギリスのような色のスーツで現れた高梨は、神経質で繊細な文学青年という想像からは程遠かった。社交的で洒脱《しやだつ》、退屈しないように女性をもてなす術を知っている男性。だが、生き生きと内面を映し出す茶色の目と、棋士のように白く細長い指だけは、なぜか想像通りだった。
高層ビルのホテルのバーでは、高梨は、早苗を一番よく夜景が見える位置に座らせてくれ、様々な話題で楽しませようとした。だが、その大半は、早苗が聞きたいと思っていた小説の話ではなく、いかにも若い女性が好みそうな、ファッションやグルメの話だった。おそらく、早苗を『|銀色の夜《シルバリー ナイト》』シリーズのファンだと思いこんでいたのだろう。
話題が一瞬とぎれたとき、早苗は、思い切って『Implosion』の話を持ち出してみた。まだ小学生だったので、読んでいる最中はよく理解できなかったが、読後、自分の中で、イメージがどんどん膨らんでいったことに驚いたと。
そのときの高梨の表情の変化は、印象的なものだった。は、素朴な驚きと照れ、矜持《きようじ》と恥ずかしさが入り交じったような色が、次々に交錯した。世慣れた大人の仮面が剥《は》がれ落ち、実際はろくに世間を知らないまま作家になってしまって、当惑している少年の素顔が覗《のぞ》いたのである。
早苗の目には、九歳も年上の男性が、庇護《ひご》を必要としている子供のように映っていた。そして、自分の思いこみが間違っていなかったことを確信した。『|銀色の夜《シルバリー ナイト》』シリーズは、いわば口過ぎの仕事にすぎず、高梨は、いずれは、もっと素晴らしい作品を書くつもりに違いない。彼を励まし、その手助けができたら、どんなに嬉《うれ》しいだろうか。
だが、結局そのときは、言いたかったことの十分の一も言えず、シリーズ最新刊の『天使は舞い降りた』にサインをもらっただけに終わった。早苗はあとでお礼の絵葉書を出し、返事をもらったが、二人の関係がそれ以上に進展することはなかった。
その後、高梨の小説は、徐々に書店の店頭で見かけることが少なくなっていった。気にはなっていたものの、早苗自身も将来の夢に向かっての勉強で忙しく、いつのまにか、小説からは遠ざかっていた。
早苗が高梨に再会したのは、最初の出会いから六年後のことである。早苗は、二十五歳になり、母校の大学病院の精神科にインターンとして勤めていた。
たまたま、休日に神田の書店で精神医学関連の書棚を見ていたとき、早苗は、どこかで見たような風貌《ふうぼう》の男が隣に立っていることに気がついた。油っけのないばさばさの髪で、肘当《ひじあ》てのついたコーデュロイの上着を着た長身の男は、真剣な表情で本に見入りながら、頬《ほお》から顎《あご》を覆っている短い髭《ひげ》を撫《な》でていた。
最初は単なる既視感《デジヤ ヴユ》かと思ったが、男にどこかで会ったという感じは強まるばかりだった。あまりまじまじと顔を見るのも憚《はばか》られたが、ちらちらと様子を窺《うかが》っているうち、男が書棚に本を戻す手が目に入った。男にしては白く、細長い指。はっとしたとき、男は怪訝《けげん》そうに早苗に顔を向けた。薄茶色の目を見たときに、早苗の中で確信が生まれた。
「高梨さん」
Posted by orae at
11:43
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