2016年03月08日
薄茶色の目に
高梨は、デビューしてしばらくは、純文学誌に実験的な作品を発表していた。単行本化された際の売れ行きも概して悪くはなかったが、作風を一転して、『|銀色の夜《シルバリー?ナイト》』という都会的なテイストの恋愛小説のシリーズを書き始めてからは、若い女性を中心に多くの読者を得るようになった。新作が出れば、短期間ながらベストセラーのリストにも上るようになり、いくつかの作品は、テレビドラマ化や映画化もされた。
早苗は、少々複雑な感慨を抱いていた。自分が早くから認めていた作家がメジャーになるのは、うれしいことには違いなかったが、反面、掌中の珠《たま》を他人に奪われたような気分にもなった。それに、『|銀色の夜《シルバリー?ナイト》』シリーズもけっして嫌いではなかったものの、読者に対する妙な迎合が目につく分、『Implosion』で感じた|※迸《ほ》とばるしような才能の輝きは、かなり薄まっているように感じたのだ。
早苗が最初に高梨に会ったのは、まだ十九歳の医学生のときだった。たまたま、早苗がアルバイトをしていた塾の経営者が、高梨と高校の同級生だったため、せがんで、引き合わせてもらったのである。
『Implosion』を読んで以来、早苗の中では著者がどんな人なのだろうかという興味が膨らんでいたが、当時流行だったキリギリスのような色のスーツで現れた高梨は、神経質で繊細な文学青年という想像からは程遠かった。社交的で洒脱《しやだつ》、退屈しないように女性をもてなす術を知っている男性。だが、生き生きと内面を映し出す茶色の目と、棋士のように白く細長い指だけは、なぜか想像通りだった。
高層ビルのホテルのバーでは、高梨は、早苗を一番よく夜景が見える位置に座らせてくれ、様々な話題で楽しませようとした。だが、その大半は、早苗が聞きたいと思っていた小説の話ではなく、いかにも若い女性が好みそうな、ファッションやグルメの話だった。おそらく、早苗を『|銀色の夜《シルバリー ナイト》』シリーズのファンだと思いこんでいたのだろう。
話題が一瞬とぎれたとき、早苗は、思い切って『Implosion』の話を持ち出してみた。まだ小学生だったので、読んでいる最中はよく理解できなかったが、読後、自分の中で、イメージがどんどん膨らんでいったことに驚いたと。
そのときの高梨の表情の変化は、印象的なものだった。は、素朴な驚きと照れ、矜持《きようじ》と恥ずかしさが入り交じったような色が、次々に交錯した。世慣れた大人の仮面が剥《は》がれ落ち、実際はろくに世間を知らないまま作家になってしまって、当惑している少年の素顔が覗《のぞ》いたのである。
早苗の目には、九歳も年上の男性が、庇護《ひご》を必要としている子供のように映っていた。そして、自分の思いこみが間違っていなかったことを確信した。『|銀色の夜《シルバリー ナイト》』シリーズは、いわば口過ぎの仕事にすぎず、高梨は、いずれは、もっと素晴らしい作品を書くつもりに違いない。彼を励まし、その手助けができたら、どんなに嬉《うれ》しいだろうか。
だが、結局そのときは、言いたかったことの十分の一も言えず、シリーズ最新刊の『天使は舞い降りた』にサインをもらっただけに終わった。早苗はあとでお礼の絵葉書を出し、返事をもらったが、二人の関係がそれ以上に進展することはなかった。
その後、高梨の小説は、徐々に書店の店頭で見かけることが少なくなっていった。気にはなっていたものの、早苗自身も将来の夢に向かっての勉強で忙しく、いつのまにか、小説からは遠ざかっていた。
早苗が高梨に再会したのは、最初の出会いから六年後のことである。早苗は、二十五歳になり、母校の大学病院の精神科にインターンとして勤めていた。
たまたま、休日に神田の書店で精神医学関連の書棚を見ていたとき、早苗は、どこかで見たような風貌《ふうぼう》の男が隣に立っていることに気がついた。油っけのないばさばさの髪で、肘当《ひじあ》てのついたコーデュロイの上着を着た長身の男は、真剣な表情で本に見入りながら、頬《ほお》から顎《あご》を覆っている短い髭《ひげ》を撫《な》でていた。
最初は単なる既視感《デジヤ ヴユ》かと思ったが、男にどこかで会ったという感じは強まるばかりだった。あまりまじまじと顔を見るのも憚《はばか》られたが、ちらちらと様子を窺《うかが》っているうち、男が書棚に本を戻す手が目に入った。男にしては白く、細長い指。はっとしたとき、男は怪訝《けげん》そうに早苗に顔を向けた。薄茶色の目を見たときに、早苗の中で確信が生まれた。
「高梨さん」
Posted by orae at
11:43
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