2015年02月28日
オトコとオンナは
男性は、お酒、ギャンブル(株などを含む)で、脂ぎる。
(と、勝手にわたしは思う)
おそらく、いいオトコを知らないから、こんな偏dermes 脫毛價錢見に満ちた、さびしいことを言うんだろう。
女性は、言っちゃなんだが、わたしは、素敵な女性しか知らない。
なかには、とんでもない陰険なお方もいるが、べつに、どうってことはない。
現在未婚で、結婚を希望する人(50歳以上)に対する、男女の違いが、A新聞に載っていた。
男性は、女性に、性的関係を急いで迫るな!と、注意点が指摘されていた。
このあたり、女性と男性、まったくといっていいほど、ギャップを感じる。
男性も、濃厚系と、淡白系(肉食系と、草食系)に分かれるようだ。
草食系は、いまのわたしの年齢なら、大歓迎。
さらり、涼風。さわやか~。
逆に、肉食系、脂ギンギン、不潔、汚い、身だしなみも構わないような男性は、超NG。
ひたすら、肉にとり付かれているかのごとく・・・は、やめて~という、かんじ。
そういう人は、そういう人にぴったり合った、お相手と、研究に励んでいただければよろしいかと。
とことん、同好者同士、掘り下げて、追究していただければ、よろしいかと。
ただ、ね。
女性はホンネを言わない人が多いので、
わかったような気になって、一人合点をしないように、お願いしますね。
演技だってなんだって、へーキだから、勘違いしないように気をつけてくださいね。
オトコとオンナは、まったく分かり合えないものだと、わたしは思っている。
なので、男性が、「女性はこうだ」と、思い込みに近いことを仰っているのに接するにつけ、
違うんだけど~~
全然、違うんだけど~~
と、がっかりする。
女性の研究に詳しいと、自称しておられる方に限って、そういう人が多い。
研究の根本から洗いなおして、先入観をとっぱらって、それをわかったうえで、
一からやり直していただきたい。
それは、お互い様だけれど。
2015年02月26日
あれを買えばいいんだ
家電店で、パソコンの近くに、電子ピアノが展示してあった。
とても美しい、うっとりする音色を奏でている。
プロのピアニストも、いらないのではないかと思うほどだ。
サンプルとして、演奏していたピアノは、展示されていdermes 激光脫毛た中で、一番高価なものだった。
高価すぎるので、手が出ないから、買おうか、どうしようか、と、悩みのツボに落っこちなくてよかったが。
どこかの国で保護された、記憶喪失の若い男性ピアニストが、いたっけ。
あの人が、実は透明人間になって、奏でているのか???
そんなわけはないだろうけれど、
ケアハウスか、老人ホームの個室で、ひとり、うっ黃斑點とりピアノに聴き入る自分を想像した。
膝の上には、電子猫をのせて、頭をナデナデしながら・・・
私も、ほんのすこぉし、ピアノは弾けるのだが、
余裕が出てきたら、みっちり練習しよう、なんて思っていたが、その気が失せた。
あんな美しい音色を聴かせてくれるピアノがあるなら、あれを買えばいいんだ。
そうやって、易きに流れ、指の運動を怠り、またひとつ、ボケに近づいていくのだろううか。
あ、それと、電子辞書。
これは、とってもスグレモノだ。
一番のお気に入りは、ネイティブスピーカーの発音付き!!
「脳内パリ」にも大層役立つだろうと、興味津津。
使いこなせるかどうかは、別として。
なんだか、ワクワクしてしまう。
ただ今、パンフレットを熟読中。
結構それだけで、遊べるから不思議だ。
私の頭の中は、いたって単純な造りになっているようで、退屈することを知らない・・・・
2015年02月06日
わたしの祖母と同じ表現だ
人間って、欲が深い。
自分でも、今は最高に幸せだと思っているのに、(あ、夫との戦闘状態、どうなった?)
なぜか、ぽっかり、こころに穴があくことがある。
祖母が人生の最終時期によNeo skin lab 美容騙子く言っていた言葉。
「ああ、自分は幸せや。幸せすぎて、はやく死にたい」
NHK連ドラのカーネーションでも、ヒロインの祖母が、老いて「はよ、おまいりしたい」と言っていた。
死にたいことを、「おまいりしたい」、と言うのは、わたしの祖母と同じ表現だ。
祖母は天寿を全うし、大往生を遂げた。幸せな人生だと思う。
(おとなしく寡黙で辛抱強い、縁の下搬屋公司收費の力持ち。黙々と働く明治生まれの祖母。
幼い頃、わたしたち、きょうだいは、よくお世話してもらっていた。感謝、感謝)
凪(なぎ)状態は、こころが安定していて幸せなのだが、その幸せは長くは続かない。
幸せが飽和状態になり、麻痺して嬰兒敏感くると、退屈になり、生きがいを失い、
「ああ、はよ、おまいりしたい」になる。
虚しいなあ・・・
どんな多くの人に囲まれようが、栄誉に満ちあふれかえろうが、
(幸か不幸か、わたしには、無縁ですが)
とつぜん、自分と対決しなければいけない。
ああ、そういえば、アレをいただいた方に、お返しを返さなきゃ。
いつ、なにを? どこで買おう?
もうひとり、もらいっぱなしで、ほったらかしている人がいたっけ。
今週末の段取りは、えーーっと・・・
そんな先のことより、今日、持って行くものは・・・
あれこれ、考えたり、行動したり、ないアタマを使わないといけない。
ぼーーっとしていると、時間は、刻々と流れていく。
「幸せすぎて、はよ、おまいりする時期」は、まだまだ来そうもない。
2015年02月04日
ほとんど
蝶ブログの最初のあたりを、ただいま、製本化、準備中である。
なんと、鼻持ちならないことばかり表現していると、わが目を疑う。
自分でも目を背けそうになった。
そりゃあ、あんな内容なら、元同級生は、嫌になって読まないはずだ。
ほとんど、自慢韓國 午餐肉。
しかも、まあ、たらたらと。行間から、あふれ、滴りこぼれている。
嫌味ったらしいこと、嫌味ったらしいこと。
もっと書きようもあるだろうに維他命C。
しかし、当時は、まるまるそう思って、茶化しもせず、まじめに書いている。
そのまじめっぷりが、意識なき浅はかな愚かさを増大させている。
(とはいえ、書いていることは、今日や昨日と大差はない)
あれで、閲覧数がある程度あるとすると、たいした驚き、びっくりものだが、
(証拠はないが、おそらく、一桁ぐらいではないかと推測する・・・)
閲覧数に関しては、安心することに、心臓に悪くないことになっている。
というのは、当初、閲覧数には目もくれず、まったくデータが残っていない。
閲覧数自体、存在するということを知らなかったのではないかという疑惑さえ浮かんできた。
閲覧数をチェックし始めたのは、ブログ開始2年後ぐらいからのようだ。
ブログをアップしていて、2年間も閲覧数をチェックしないというのも、すごいことだ。
完全に、完璧に、書くだけの世界にどっぷり浸かって、自己陶酔しきっている自分がいる。
我ながら、おそろしくて、固唾をのむ。
こうなれば、一日もはやく製本を完結して、はやくブログを消滅させねば。
いやはや、赤面というよりは・・・なんですかね・・・表現する言葉すら見当たらない。
そうこうして、徐々に自分のアク抜きをしていったのだろう。
わたしにとって、アク抜きは、不満や愚痴ではなく、自慢だったようだ。
ああ・・・なんという・・・。
(しかしながら、自慢は根強くベースにあり、それをあえて表現するか、しないか、であり、
本質は変わっていない)
上澄み液を捨てていって、さあ、自分のこころの深部、底にはなにがあるのか?
それが見えてくるには、やはり時間がかかるようだ。
自分と向かい合うには、書いて書いて書いて、アタマとこころの整理が必要だと想像する。
なんと、鼻持ちならないことばかり表現していると、わが目を疑う。
自分でも目を背けそうになった。
そりゃあ、あんな内容なら、元同級生は、嫌になって読まないはずだ。
ほとんど、自慢韓國 午餐肉。
しかも、まあ、たらたらと。行間から、あふれ、滴りこぼれている。
嫌味ったらしいこと、嫌味ったらしいこと。
もっと書きようもあるだろうに維他命C。
しかし、当時は、まるまるそう思って、茶化しもせず、まじめに書いている。
そのまじめっぷりが、意識なき浅はかな愚かさを増大させている。
(とはいえ、書いていることは、今日や昨日と大差はない)
あれで、閲覧数がある程度あるとすると、たいした驚き、びっくりものだが、
(証拠はないが、おそらく、一桁ぐらいではないかと推測する・・・)
閲覧数に関しては、安心することに、心臓に悪くないことになっている。
というのは、当初、閲覧数には目もくれず、まったくデータが残っていない。
閲覧数自体、存在するということを知らなかったのではないかという疑惑さえ浮かんできた。
閲覧数をチェックし始めたのは、ブログ開始2年後ぐらいからのようだ。
ブログをアップしていて、2年間も閲覧数をチェックしないというのも、すごいことだ。
完全に、完璧に、書くだけの世界にどっぷり浸かって、自己陶酔しきっている自分がいる。
我ながら、おそろしくて、固唾をのむ。
こうなれば、一日もはやく製本を完結して、はやくブログを消滅させねば。
いやはや、赤面というよりは・・・なんですかね・・・表現する言葉すら見当たらない。
そうこうして、徐々に自分のアク抜きをしていったのだろう。
わたしにとって、アク抜きは、不満や愚痴ではなく、自慢だったようだ。
ああ・・・なんという・・・。
(しかしながら、自慢は根強くベースにあり、それをあえて表現するか、しないか、であり、
本質は変わっていない)
上澄み液を捨てていって、さあ、自分のこころの深部、底にはなにがあるのか?
それが見えてくるには、やはり時間がかかるようだ。
自分と向かい合うには、書いて書いて書いて、アタマとこころの整理が必要だと想像する。
2015年02月02日
大地響き

そうやって親きょうだいを巻き込んで、子育てしていく。
いちいち気を使っていては、やっていられない。
一人で抱え込んで頑張っても、パンクする。
自分もずいぶん、助けてもらった。
直接、手助けできないお年寄り(曾祖母)は、子育ての足を引っ張らないよう、自分の健康に気をつける。
各自、自分の持ち場を守り、役割を果たす。
お正月には、またまた民族大移動。
どしんどしんと、大地響き。
それぞれの核家族が子供や孫たちを引き連れて大集合の、大家族。
長男のヨメだけが、しんどい思いをするのではなく、
各世帯、負担が軽いようにしなければ、持たない、続かない、維持できない。
地方(親元)と都市部(子世帯の勤務・通学地)のパイプやバランス、役割分担。
辛い想いをしてきた、上の世代の人々の経験を、知恵を絞ってプラスに転化させるのが理想だ。
降って湧いたような妙案は存在せず、試行錯誤するしかない。
リタイアすると、親元に帰る人も、ちらほら見かける。
が、仕事や子育てのために住んでいた、現役時代に自分が生活していた地をすぱっと切るのではなく、親元と行ったり来たり。
ただし、年とともに、体力や気力、経済力が持たなくなり、どちらか一方になることが予想される。
そこで、子供たちに、いかにバトンタッチするか。
まったくバトンタッチできすに、そこで断ち切れてしまう場合もある。
有形・無形ともに、継承は、困難を極める。
自分の想いと子供世代の想いは、別であることが多い。
都市部では、一代一代、消滅してき、また新しい一代が生まれ、誕生、消滅が繰り返される。
そこに続くものは、血だけか。(血が続かないこともある)
お墓の継承さえ、切ろうとする動きもある。
子供や孫を可愛がるのは、ペットを可愛がるのと訳が違う。
かといって、自己犠牲までして見返りを求めるのは、理想に反する。
虐待を受けて育った子供は、また虐待を繰り返す傾向にあるらしい。
それと反対に、愛されて受け入れられて育った子供は、同じように人を愛する心が育まれているように思う。
が、無条件に溺愛するあまりに、距離感を保てず、pauillacお互いのためにならない親子もいる。
あまりたいして何も考えずに、理想的な家族もいるし、
考えたからって、どうなるってものでもない。
なるようになる、ってこと。