2015年09月21日

何故かもの

「檳榔毛の車にも火をかけよう。又その中にはあでやかな女を一人、上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)の装(よそほひ)をさせて乗せて遣はさう。炎と黒煙とに攻められて、車の中の女が、悶え死をする――それを描かうと思ひついたのは、流石に天下第一の絵師ぢや。褒めてとらす。おゝ、褒めてとらすぞ。」
 大殿様の御言葉を聞きますと、良秀は急に色を失つて喘(あへ)ぐやうに唯、唇ばかり動して居りましたが、やがて体中の筋が緩んだやうに、べたりと畳へ両手をつくと、
「難有い仕合でございまする。」と、聞えるか聞えないかわ雋景 課程からない程低い声で、丁寧に御礼を申し上げました。これは大方自分の考へてゐた目ろみの恐ろしさが、大殿様の御言葉につれてあり/\と目の前へ浮んで来たからでございませうか。私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、気の毒な人間に思はれました。
 それから二三日した夜の事でございます。大殿様は御約束通り、良秀を御召しになつて、檳榔毛の車の焼ける所を、目近く見せて御やりになりました。尤もこれは堀河の御邸であつた事ではございません。俗に雪解(ゆきげ)の御所と云ふ、昔大殿様の妹君がいらしつた洛外の山荘で、御焼きになつたのでございます。
 この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたも御住ひにはならなかつた所で、広い御庭も荒れ放題荒れ果てて居りましたが、大方この人気のない御容子を拝見した者の当推量でございませう。こゝで御歿(おな)くなりになつた妹君の御身の上にも、兎角の噂が立ちまして、中には又月のない夜毎々々に、今でも怪しい御袴(おんはかま)の緋の色が、地にもつかず御廊下を歩むなどと云ふ取沙汰を致すものもございました。――それも無理ではございません。昼でさへ寂しいこの御所は、一度日が暮れたとなりますと、遣(や)り水(みづ)の音が一際(ひときは)陰に響いて、星明りに飛ぶ五位鷺も、怪形(けぎやう)の物かと思ふ程、気味が悪いのでございますから。
 丁度その夜はやはり月のない、まつ暗な晩でございましたが、大殿油(おほとのあぶら)の灯影で眺めますと、縁に近く座を御占めになつた大殿様は、浅黄の直衣(なほし)に濃い紫の浮紋の指貫(さしぬき)を御召しになつて、白地の錦の縁をとつた円座(わらふだ)に、高々とあぐらを組んでいらつしやいました。その前後左右に御reenex cps價錢側の者どもが五六人、恭しく居並んで居りましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。が、中に一人、眼だつて事ありげに見えたのは、先年陸奥(みちのく)の戦ひに餓ゑて人の肉を食つて以来、鹿の生角(いきづの)さへ裂くやうになつたと云ふ強力(がうりき)の侍が、下に腹巻を着こんだ容子で、太刀を鴎尻(かもめじり)に佩(は)き反(そ)らせながら、御縁の下に厳(いかめ)しくつくばつてゐた事でございます。――それが皆、夜風に靡(なび)く灯の光で、或は明るく或は暗く、殆ど夢現(ゆめうつゝ)を分たない気色で、凄く見え渡つて居りました。
 その上に又、御庭に引き据ゑた檳榔毛の車が、高い車蓋(やかた)にのつしりと暗(やみ)を抑へて、牛はつけず黒い轅(ながえ)を斜に榻(しぢ)へかけながら、金物(かなもの)の黄金(きん)を星のやうに、ちらちら光らせてゐるのを眺めますと、春とは云ふものゝ何となく肌寒い気が致します。尤もその車の内は、浮線綾の縁(ふち)をとつた青い簾が、重く封じこめて居りますから、※(「車+非」、第4水準2-89-66)(はこ)には何がはいつてゐるか判りません。さうしてそのまはりには仕丁たちが、手ん手に燃えさかる松明(まつ)を執つて、煙が御縁の方へ靡くのを気にしながら、仔細(しさい)らしく控へて居ります。
 当の良秀は稍(やゝ)離れて、丁度御縁の真向に、跪(ひざまづ)いて居りましたが、これは何時もの香染めらしい狩衣に萎(な)えた揉烏帽子を頂いて、星空の重みに圧されたかと思ふ位、何時もよりは猶小さく、見すぼらしげに見えました。その後に又一人、同じやうな烏帽子狩衣の蹲(うづくま)つたのは、多分召雋景 課程し連れた弟子の一人ででもございませうか。それが丁度二人とも、遠いうす暗がりの中に蹲つて居りますので、私のゐた御縁の下からは、狩衣の色さへ定かにはわかりません。



Posted by orae at 16:24│Comments(0)
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