2014年12月22日

全体性の美学的観点

美しさを思うとき、どこまで視覚性によって評価するのだろう。
生まれてからずっと西洋文化に慣れ親しんでいる私たちは、美を相対的に、対面的な主観で評価する癖が付いてしまってはいないだろうか。
以前取り上げた建築を例に取れば、西洋の建築やインテリアデザインは、人間の視覚的主観性をもって建築等のデザインを評価し判断を下す。
シンメトリー(左右対称)をはじめ西洋のデザインは、それのみで美しさの完全性を追求し、美を判断される対象物と、判断者である自分は完全に切り分けられる。
日本の本建築の場合、人間が含まれた全体の空間性、意匠性を感じとり、全体的に “サマになっているかな” という美しさの評価がある。
人が住む、人がその中に入って調和が取れるかどうかを考えて家を造る。
絵画や水墨画にしても、絵に大きな世界観があり小宇宙があり、しかも時間の経過を感じさせるという、全体性の美しさを、日本人は描くことができる。
日本人が得意とするアニメもその延長線上にあると言える。
活け花が床の間にあっても、その活け花だけを見て素晴らしい美しいと評価するのは西洋的である。
全体空間の中での一つの役割を演じるに相応しく、一つだけ飛び抜けようと主張することなく、部屋全体の調和が取れているかどうかを美しさの評価基準とする。
空間に入る人間も同じで、自分を含めた全体調和が為されているかどうか、着ているものは相応しいか、言動の一挙手一投足は相応しいだろうか、そこを日本人は無意識のうちに感じとろうとする。
ところで、懐かしい曲を聞いたり、懐かしい匂いを感じたりしたときに、昔の記憶が蘇り、言葉にならない質感までもが蘇るという経験をされたことはないだろうか。
或いは、子どもの頃に暮らした町に数十年ぶりに帰って、「家から学校までの距離がこんなに短かったのか、子ども頃は長く感じたのに」 というイメージ。
数十年ぶりに自転車に乗ろうとすれば乗れてしまう。
これは、視覚だけでなく、聴覚や臭覚、三次元感覚、時間感覚(1分の長さ)など、当時の全体性を私たちが感じとっていて、無意識内に記憶として放り込んであるものが、何かのきっかけで現在に蘇ることによって生じる現象である。
脳内にある扁桃体の働きによって重要な記憶は半永久的に残ると言われているが、この残りかたは “エピソード記憶” と言って、有時間の空間物語として記憶しており、まさに全体性の記憶である。
ユング心理学は、意識と無意識を合わせた全体性において心理の判断をする。
この判断基準の要素の一つに、“心の美しさ” を入れるというのはどうだろう。
人間、社会的なペルソナ(仮面)を取れば、そりゃ悪い性格だってあるし、利己主義的なところだってあるし、狡賢く処世することだってあるに決まってる。
ユングは、そうした自分自身を嫌になる点をけっして否定してはならないと言う。
消さなくていい。消してはならない。抑圧してはならないserviced apartments
ユング心理学は鷹揚だ。(鷹揚=小さなことにこだわらずゆったりとしているさま)
影の自分を許容しつつ光の自分に従えて人生を歩んでゆけとユングは言う。
影と光とを合わせた “自己” の全体像としてどうかという視点である。
“自己” はいくつかの人格によって造られているのだろう。
そのバランスが美しいかどうかという、内省のテーマは有って良いのではないか。
西洋の美学的観点を持つこともいい。
しかしそれが絶対ではない。
ユングは西洋の完全性を認めつつも、東洋の全体性を自身の心理学理論の中核に置いた。
東洋の全体性を感じる感覚というのは、一つの才能と言えるかもしれない。
日本人の無意識内に宿っている才能を生かしてみようじゃないか。


同じカテゴリー(全体性の美学的観点)の記事画像
大地響き
同じカテゴリー(全体性の美学的観点)の記事
 な事なんて (2015-09-07 17:20)
 戻ってきた (2015-09-01 15:56)
 オトコとオンナは (2015-02-28 12:52)
 あれを買えばいいんだ (2015-02-26 16:43)
 わたしの祖母と同じ表現だ (2015-02-06 11:46)
 ほとんど (2015-02-04 13:18)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
全体性の美学的観点
    コメント(0)